雲仙普賢岳と13年前の溶岩の欠片(かけら)
今から13年前(平成4年)の夏,私は一人で九州を旅した.
当時の九州は,平成2年(1990年)に雲仙普賢岳の噴火し,その後何度もの火砕流や土石流が発生し
大変な時だった.
その災害の情報は毎日のようにニュースで取り上げられ,「火砕流」という言葉が一般的になったのも
この噴火によるものだと思う.
雲仙普賢岳の噴火を簡単に紐解いてみる
平成2年(1990年) 11月17日 | 普賢岳が198年ぶりに噴火する. |
平成3年(1991年) 5月 | 地獄跡火口に溶岩ドームが出現.土石流が水無川流域に発生 |
平成3年(1991年) 6月 | 二度の大火砕流発生.消防団員、警察官、取材中の報道関係者など43名が犠牲となる. |
平成4年〜平成6年 | 近隣地域で何度も土石流と火砕流が発生し国道57号や島原鉄道を飲み込む. 北東側斜面に火砕流発生,1名が犠牲となる. |
平成7年 (1995年) 5月 | 火山噴火予知連絡会が「噴火活動はほぼ停止状態」との見解を発表 |
平成8年 (1996年) 6月 | 「噴火活動の終息宣言」が発表される. |
当時の私は被災地がどうなっているのか,どうしても知りたくて現地を訪れた.
被災地を抜ける国道はバリケードで封鎖され立ち入りが規制されていた.
ただ,淡々と復興のダンプカーだけが砂煙を立てて行き交っていたのを覚えている.
脇道にはバリケードがなかったため,そこから先へ進むとそこは砂ぼこりにまみれたゴーストタウンだった.
時折,退去勧告を受けた住民が残してきた自分達の家財道具を持ち出している姿が見えた.
私は場違いな自分に後悔と申し訳ない気持ちでいっぱいになった.
そして道が荒れて進めなくなったところが火砕流や土石流で埋まった水無川だった.
そこは一面溶岩だらけで自然の恐ろしさを思い知らされるくらい悲惨なものだった.
その日は関係者による視察が行われていたようで,向こうに大勢の制服姿と消防車両数台が止まっていた.
私はここに来た想い出にどうしても溶岩の欠片が欲しくて慌てて拾い集めた.
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13年前に持ち帰った溶岩の欠片 |
その後その人たちに見つかった私は直ぐに退去を命ぜられその場を後にした.
そんな思いをして持ち帰った溶岩の欠片だったが,被災地の物だけにどう取り扱ったらいいのか分からず,
しばらく悩んだ. しかし,それも時間と共に私の心から消えていった.
熊本に転勤後も雲仙を訪れたが,家からそう遠く離れていないこともあり,思い出すことはあっても
それ以上の事は考えなかった.しかし事情によりいつまでもこの地にいられないと思い始めた途端,
どうしてもあのとき持ち帰った溶岩の欠片を元の場所へ帰したくなった.
10月のある土曜日の夕方,ふと時間が空いた私はその思いを果たすため雲仙に行くことにした.
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現在の水無川.
遠くに雲仙普賢岳が見える. 茶色く山肌が露出しているのは噴火の爪跡
島原まゆやまロードの水無川砂防施設展望所から見た砂防施設の様子.
持ち帰った溶岩の欠片を元の場所へ帰そうとアチコチ探し回るが,砂防工事が進み当時の面影はなく何時間も
近辺を走り回った.
ここの案内看板で対岸に被災した小学校跡があると知り行ってみることにした.
旧大野木場小学校(火砕流被災校舎)
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旧校舎は窓枠が鉄製だったため焼け残っている. アルミ製の窓枠は融点が低い為,溶けて無くなったそうだ. この校舎を保存するに当たり色々と処置を施している. 鉄筋コンクリート校舎は防水切れによる鉄筋の腐食を防ぐ為, 屋上やバルコニーは改めてを防水工事を施し,コンクリートは アンカーピンを打ち込み補強を行うことで崩落を防いでいる. (左端の柱に等間隔に並ぶ点々がその跡) また,鉄部はサビ安定化剤を塗布後,表面をクリアコート している. 保存に対する取り組み方をはじめ,説明の看板の文面も 非情に分かりやすく説明してあり本気度が伝わってくる気がした. |
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左に見える施設が「大野木場砂防みらい館」
ここは溶岩ドームの監視を行い砂防工事の安全を確保すると同時に避難施設(地下)の役割をに担っている.
溶岩の欠片は水無川砂防えん堤に帰してきました.
改めて犠牲となった方々に冥福を祈ると共に,被災により大切な家財や思い出を失った方へ
お見舞い申し上げます.
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